才能を責任逃れに費やす人
おはようございます。
誰かと仕事の話をするとき、その人のやる気がどれほどが探る習慣がついてきた自分をいやらしく思っている間瀬邦生です。
何に興味があるのか、何なら真剣に取り組んでくれるか、何なら手を抜くのか、どの程度の意識で仕事に向き合ってくれるのか、そういう性格を知れば、きっと良い関係が保てると思います。
誰か(どこかの企業)と仕事をやろうと思ったとき、普通はお金が絡んできますよね。金銭のやり取りが発生すれば、おおよそ責任逃れはできません。金銭の分だけは必ずやってくれます。やってもらう義務があります。
こういうケースは安心です。
しかし、協力関係であったり、(最初は)無償で仕事をお願いしたりするとき、「一緒に○○をやりたい」と表向きは言っていても、できない理由や不安要素をしきりに口にする人がいます。
きっとその人は、失敗したときの不安を先に考えてしまい、どこかで仕事を回避することに頭を使ってしまっています。
ダメな理由を考えたり仕事を回避したりすることに頭を使うのではなく、不安の解決策を見つけることに頭を使って欲しいとよく思います。
また企業に所属していて、新しい試みに対して拒絶反応を示す人。
試みを成否を正しく判断した上での拒絶であれば問題ないのですが、面倒だという理由や古い考えを捨てられないがゆえに拒絶反応を示す人。そういう人だって元々は優秀な頭脳を認められて採用されたわけです。
その優秀な頭脳も、時がたち、怠惰になっていくうちに、自己保身に使うようになっていく。
どんなに優秀な頭脳を持っていても、その頭脳を自己保身や失敗の責任逃れに費やすようになった人を見かけたときは残念でなりません。
任務・仕事の失敗を規則のせいにする人がいます。
規則に従って行動していたが失敗してしまったというのは、責任逃れをする人によくあるパターンです。どれだけ忠実に規則に従い行動したかを主張してきます。
そもそも規則のせいであれば、失敗する前に規則を変える努力を怠った点が自分の弱さではないかと考えていただきたいものです。
規則を守ることは、自分を守るためでもあります。
規則に従っていれば、周りも許してくれることが多いです。
しかし、仕事をやり遂げるには現状の規則が足枷になることもあるでしょう。時代が変わり、状況が変われば、規則という既成概念にメスを入れる覚悟も必要になります。
変えることは勇気がいること。変えたことによる責任も生じます。
そこまでの勇気と責任を持った人とお付き合いをしたいと思います。
この言葉は目的達成のための大切な言葉だと思います。
君主は戦争のやり方を将軍に口出ししたくなるもの。
もし現場の状況に相応しくない君主の命令が来た場合は、それに従わなくても構わないと言っています。
命令に背いた結果については自分が責任を負うという覚悟も同時に必要となり、その覚悟がないと行動はできません。
組織人として上司の命令に服さないのは問題がある、いや、上司の命令が間違っている時は、聞かなくていい、両者の言い分は分かります。その答えは戦争に勝つか負けるかの結果が全てです。
君主も将軍も目的は同じです。
目的のための規則であって、規則のための規則ではないことを是非考えて欲しいものです。
織田信長が羽柴秀吉に中国征伐を命じたとき、荒木村重が信長に反旗をひるがえし、説得に出向いた黒田官兵衛が捕えられてしまいます。
信長は官兵衛の子・松寿(後の黒田長政)殺すように命じましたが、竹中半兵衛は承知するも松寿を殺さず、密かにかくまいました。
1年後、村重の反乱が平定され、官兵衛が救出されたとき、信長は「官兵衛に会わせる顔がない」と言って嘆きましたが、後で半兵衛から松寿の無事を聞かされ、大いに喜んだといいます。
「事の責任を取るのは自分」という心意気あっての行動ですね。