アマチュアバスケットボールチームのリーダーを10年経験して学んだこと
おはようございます。間瀬邦生です。
先日、所属するアマチュアバスケットボールチームで、リーダーとして最後の練習を終えました。
私の人生で大きな地位を占めていたバスケットボールに、一つの大きな区切りがついたことになります。
本日は26歳から10年間のバスケットボール人生についてお話ししたいと思います。
1.私にとってのバスケットボールとは
2.なぜこんな私がリーダーをやっていたのか
3.ストレスをとことん排除したこと
4.チームが変われたこと
5.私の人付き合いが下手ということ
6.人付き合いが上手い人を尊重し続けたこと
7.本当の意味でのリーダーに必要なこと
一言でいうと『社会と私を繋ぐ架け橋』です。
皆さんの周りにちょっと変わっている人はいませんか?
もしいるとしたら、それが私です。みんなが楽しんでいることを楽しめず、みんなが興味を持たないことに興味を持っていました。
『私は、既存の権力や秩序に従うつもりはない。自分の価値観で動く。場合によってはテロリストになってアメリカと戦っていたかもしれない』
練習後のファミリーレストランでこんな発言をするくらいですから、私は相当浮いた存在といえるでしょう。チームメイトの困惑した表情が今でも鮮明によみがえります。
話が合わないので交友関係は広がるはずもなく、そんな私と社会の架け橋となってくれたのがバスケットボールでした。
大げさかもしれませんが、
『私はバスケットボールがあったからこそ、価値観の違う人と話をすることができ、何とか三十五年間生きてこられた』
とすら思います。
バスケットボールは私にとって命の恩人ともいえる存在なのです。
リーダーは損な役回りでもあります。
アマチュアスポーツのリーダーは輝かしいものではなく、どちらかといえば雑用係のような面があります。少なくとも私の所属するチームにおいてはそうでした。
そういったリーダーの地位でしたが、辛いから誰かに任せるとか別のチームに移籍するという選択肢は私にはありませんでした。
私にはこのチームしかないからです。
新しいチームで新しい人間関係を築くことは私にとって大きなストレスであり、今のチームがなくなることはバスケットボールを続けられなくなることと同じでした。
おそらくチームがなくなっては困るという気持ちを一番強く持っていたのは私だったでしょう。
その気持ちさえあれば、リーダーを続けていくことは苦ではありませんでした。
あとがないという状況は人を強くします。私は背水の陣だったのです。
とはいえ、決して辛いことばかりということもなく、チームメイトは(少なくとも表面的には)私を立ててくれていて、リーダーとしての楽しみも十分に感じることができていました。チームメイトの支えには感謝しなければなりません。
アマチュアスポーツはストレスの解消こそすれ、ストレスを蓄積してはまったく意味がありません。
試合に勝てる強いチームも、たとえ負けても楽しいチームも、バスケットボールをやることそのものがストレスになってしまっては意味がなりません。
意味がないというか、そもそもストレスを抱えているチームが長く存続できたためしはありません。
そこでストレスのないチームにする方法を考えるようになります。
具体的には、まず、練習への出欠連絡を不要にしました。
体育館を借りるにも費用がかかりますし、満足な練習を行うにも最低限の人数が必要です。正常なチーム運営のためには練習に参加する人数を把握するということは必要不可欠なのです。必要不可欠にもかかわらず、週一回の頻度の練習への都度連絡は人によってストレスに感じてしまうものでした。束縛・強制されているようなストレスともいえるのでしょうか。
こうして出欠の連絡を不要にし、同じく遅刻の連絡も不要にしました。
連絡せずに遅刻ができることは朝寝坊な選手にとっての多くのストレス削減に貢献できたと思います。
普通は密に連絡をする方がチームとしてまとまるように思えますが、逆に連絡の頻度を少なくすることによるストレス削減から、チームに対する愛着を高め所属意識を高めることになったと思います。
実はこの連絡不要の原則は、連絡をする側のストレス削減とともに、連絡を受け取る側であるまとめ役、つまりリーダーである私のストレスを大きく減らす効果がありました。出欠を取るという行動はメンバーが1対1に対して、私は1対多だからです。
他には、運営上必要な労働は基本的にはお金で解決することにしました。
お金はあるが時間がない人、時間はあるがお金はない人、色々な環境の人がいますので、各々に合った労働力・資金を提供することでストレスの削減へと繋がっていたように思えます。
この労働力・資金を提供する制度を採用したことにより、チームでの力関係も非常に良い方向へと向かっていったように思えます。
スポーツの世界では上手い人ほど重宝されて大きな態度を取ることが多く、プロならまだしもアマチュアの世界でそれをやられると非常に困ります。何故なら勝つことが目的でない人もいるからです。この制度により公然と、
『チームの運営と存続のために労働力・資金を提供している人を大切にします』
というチームの方針を明確することができました。
これによって大会に出場せずに練習のみ参加するメンバーや技術が低いメンバーを尊重する気風を生み出すことができたのではないかと思うのです。
ストレスがない状態でこそ最高のパフォーマンスを発揮できます。
ストレスの排除はアマチュアスポーツチームだけでなく、会社でもどこでも抱えている問題だと思います。
リーダーという立場でその問題に向き合えたことは非常に貴重でした。
チームができて五年ほど経ち、年齢を重ねていくにつれ、初期メンバーが続々と引退していきました。練習に人が来なくなり、チームに活気もなくなり、当然試合にも勝てなくなります。
この時期がまさにチームの転換期だったでしょう。
この危機に、同じような人数不足の問題を抱えていた若手のチームと合併できたことが命運を分けたと思っています。
その後、私が引退するまで人員不足で悩まされることはなく、私が引退した今時点のチームの成績が一番良いという状況です。
企業の合併が起きたとき、別会社の社員の間でギクシャクすることもあると聞きますが、それを乗り越える適応力と人間力が両チームの人員に備わっていたと思います。
結果として、適応力と人間力があったからこそ、チーム力を上げることになり、大会の成績にも結び付いていったのです。
よそのチームに目を向けると、一目でリーダーだと分かる技術・統率力に優れたリーダーに出会うことがあります。
その七色に光る輝きに比べると私は白黒写真のようなものです。
実際に他のチームから、
『そちらのリーダー、影が薄いですよね』
と言われたことさえあります。
でも、リーダーが輝かないチームも悪くないですよ。
輝きはときにまぶし過ぎるものです。
世の中には、明るくて快活とした雰囲気についていけない人もいるでしょう。そういう人たちが私を見て、
『このチームのリーダーってあんなに根暗。ここなら僕でもやっていけそう』
そう思って練習へ顔を出すようになってくれれば、それはとても嬉しいことです。
10年前にチームを結成したとき、私に足りない点を補ってくれる『人当たりが良く交友関係が広い人材』がチームの運営上どうしても必要でした。
そこで私はある人材に目を付けてチームへ引き込みました。その人材は期待通りに長年チームを支えてくれ、私がリーダーを引退したあともチームの中核として、なくてはならない存在になっています。
練習試合の工面も、練習の人数が足りないときの人集めもその人材が全てやってくれました。その功績は、試合で審判をやるとか、練習場所を確保するとか、チームの雑用をやるとか、そういったことに匹敵します。
また、今のチームの構成員の大半は、その人材を起点とした交友関係の範囲の中にあります。
もしその人材がいなかったら、今どうなっていたかと思うと末恐ろしくなります。
結局、チームの初期メンバーの中でいまだにチームに残っているのが、その人材一人だけという事実を思えば、10年間チームが存続できた最大の理由は、その人材を尊重し続けたことにあるでしょう。
私の後任のリーダーは誰になったかというと、よく分かりません。
リーダーを決める会議に私も同席していましたが、曖昧な結論のまま会議が終わっていました。
物事は強制力を働かせようとも、落ち着くべきところに落ち着くと思っているので、きっとチームの行く末を一番考えている人のところへ必然的にリーダーのポジションが転がり込んでくることでしょう。転がり込んでくるというか、その人自身が居ても立っても居られなくなり、自然とチームの仕事を率先してやってしまう気がします。
さて、私が過去に経験した企業で、出世欲旺盛で高いポジションを目指す人に出会ったことがたびたびありますが、彼等の目指す本質は、『高い地位と収入』でした。
目指すものが、『社長(=リーダー)』ではなく、『地位・収入』なのです。
地位・収入を得るためには指導力も必要であり、リーダーとしてもある程度は成長していました。しかし、このまま社長になったとしたら、危機が迫ると真っ先に自分の保身を最優先してしまうレベルのリーダーとしての覚悟しかないように思えます。
リーダーになったからには、その組織と心中するくらいの覚悟でその役職を全うして欲しいと思っています。心中する気持ちがあれば、常に危機感を持って組織に臨むことができ、組織の発展を常に考えられることでしょう。
組織の行く末を誰よりも考えている人、そういう人こそが『本当の意味でのリーダー』になれるのではないでしょうか。