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孟嘗君に学ぶ最強の処世術

 

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おはようございます。間瀬邦生です。

今日の内容は、武田信玄の『人は城、人は石垣、人は堀』という言葉と似ているかもしれません。

では、私の世界にどっぷりお付き合いいただきまして、孟嘗君(もうしょうくん)の生きた時代、二千三百年前の中国の話をどうぞ。


ときは春秋戦国時代の戦国中期、各国が覇を競っていた時代です。

孟嘗君(本名は田文)は、山東半島に位置する斉という国の大臣であり、王の孫でもありました。

逸話も数多く残り、そこから分かる行動理念は以下のようなものです。


孟嘗君に学ぶ三つの行動理念

1.金より名声

2.ほど良く勝つ

3.分け与える


1.金より名声

孟嘗君の食客の一人に馮驩(ふうかん)という人物がいました。

彼を借金取立ての仕事につかせます。

馮驩は領地に着くと、まず払える者から借金を取り立て、そのお金で宴会を開きました。宴会では借用者全員を集めて借用書をまとめます。皆がどうするのだろうと見ていると、馮驩は集めた借用書をすべて火にくべて燃やしてしまいました。

「孟嘗君がおまえたちに金を貸し付けたのは、暮らしていけない者たちを助けるためである。利息を取るのは食客の費用を補うためである。今、払える者とは期日を定めた。払えない者の借用書は焼き捨てた。さあ、今日は思う存分に飲み食べてくれ!」

借用書が無いと借金を取り立てられません。これにはさすがの孟嘗君も怒り、馮驩を呼び出します。

「馮驩殿、なぜこのようなことをした!」

「完済できるものには完済させます。しかし完済できない者に無理を強いても絶対に完済はできません。それどころか、孟嘗君は領民より金を大事にすると風評が広がってしまいます。そうなるくらいなら、借金を帳消しにして領民の忠誠心と名声を取りました」

この出来事によって、領民の心をつかんだのは言うまでもありません。


2.ほど良く勝つ

孟嘗君が秦に命を狙われ、斉に帰国するという事件がありました。(参照:鶏鳴狗盗

その後、孟嘗君は斉と友好関係にあった韓と魏の国を誘って秦に攻め込み、秦軍を破ります。

そして函谷関にまで攻め入ったところで、秦から求められた講和に応じます。

函谷関は難攻不落で大きな損害を出してしまう危険性がありました。さらにここより西は秦本国領土です。これ以上攻め込むと、

『秦に大きな恨みを残すことになる』

と懸念した点も大きな理由でしょう。

恨みは新たな争いを生むことになります。大局的な視点で眺めた上での講和でした。


3.分け与える

先の戦いで秦が講和を求めた際の条件ですが、『韓と魏から奪った土地を返しなさい』というものでした。

孟嘗君はその土地を韓と魏に与えて引き返します。自らは何も受け取りません。

韓と魏は孟嘗君に大きな借りができました。

秦には深く攻め込まず、寛大な処置で対応しました。

何も受け取らなかったことによって、斉の名声を高めました。


上記の行動によって得られたもの

孟嘗君は大臣の立場でありながら各国から一目置かれ、一声かければ各国の軍隊が動きます。

自分の軍は増えずとも扱える軍は増えていきます。

領土は広がらなくとも、名声は増えていきます。

結果として、孟嘗君に危害を加えることのできる者がいなくなります。


そんな孟嘗君を疎ましく思う人間も現れ、暗殺の危険がなかったわけではありません。しかし暗殺者が潜んでいるという情報は支援者からすぐに孟嘗君に知らされるようになります。さらには依頼を受けた暗殺者ですら孟嘗君の人望に心を打たれて暗殺を放棄してしまうこともあったそうです。


その人望は自分を守る盾だったのですね。


織田信長も明智光秀に裏切られ、伊藤博文も暗殺されました。

どんなに金や権力があっても怨みを持たれてしまっては、危険を避けることはできません。

孟嘗君のように生きて天寿をまっとうしてこそ、『善く生きた』といえるのではないでしょうか。


※孟嘗君については『各国に顔がきく程度で、影響力は持っていなかった』という研究結果もありますが、事実はどうであれ、その逸話から学ぶことは多いでしょう。


※アイキャッチ画像は「馮驩借用書を焼く」。本文トップ画像は「斉国都臨淄復元模型」です。



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