田舎のおもてなしの質は高い?を考察する
おはようございます。間瀬邦生です。
おもてなし。日本人の美点と言われることが多いようですが、いざ「おもてなしは高い」と言葉に出すと、その価値が薄っぺらいものになってしまうようで、ことさら強調したくない私がいます。
田舎に来て、心のこもったおもてなしを受けることが多い日々ですが、今日はおもてなしについて考察してみます。
他人のお宅に訪問して、お茶菓子を出されてしまうと、それはそれで次に伺うときにお返しをしないといけないという気持ちも生まれてしまうわけであり、その気遣いそのものが疲れると言えば、とても疲れてしまうものです。
図々しい輩であれば、儲けものだとおもてなしを受けてしまうでしょう。
しかし、節度があれば、おもてなしに対するお返しのことも頭に浮かび、ストレスになってくることもあるというもの。
田舎は物々交換社会が強く存在するので、物でもてなすことがごく日常的な社会ではないかという気がします。いつもあげたり貰ったりしているので、食べ物でもてなすことへのハードルが低いと推測しました。
それは、そういう習慣のない都会の人から見れば、結果的におもてなしが高いと感じられることでしょう。
おもてなしは、もてなす人の人生の一部を消費しているという認識を持つべきです。
その人の労働の対価として、おもてなしの品が存在します。
その品を受け取って、お返しをしないことは、おもてなしという綺麗な言葉の裏に隠されている「搾取」という事実です。
日々のおもてなしですが、何度も何度も貰ってばかりだと、いずれ貰えなくなります。
そして陰で「あいつは、貰ってばかりで御礼の一言もない」と言われ出します。
田舎は、無報酬で奉仕し続けるような聖人の集まりがいうわけでもなく、普通の人たちの集まりです。
※ 今回は、一度きりのお客様へのおもてなしは、除外して考えます。一期一会の出会いへのおもてなしは、ちょっと別格ですから。
「都会の人は貰えるだけもらって、御礼をしないことが多いので、御礼(の気持ち)を持ってくださいね」
これは私自身が日々助言されていることでもあります。
最初は感動するようなおもてなしを受けていても、それに慣れてしまい、御礼(の気持ち)を忘れていると、いずれ無視され出します。
御礼(の気持ち)は何かしらの形で表現する必要があります。
この感覚が馴染めないと田舎の人間関係を構築するのは難しいのかもしれません。
田舎はおもてなしが高いけれども、見捨てられたときの冷たさも半端ではないと聞きます。
都会人は、おもてなしを捨てることにより、気遣いのストレスを解消した人類。
田舎人は、おもてなしを維持することにより、気遣い・絆を重要視した人類。
そんな気がします。